北爆再開 爆弾を投下するB-52 トンキン湾に展開する南ベトナム海軍船艇 ケサン近郊に展開するアメリカ陸軍講和条件を有利にする為、カンボジア領内に越境してまで北ベトナム軍の拠点と補給ルートの壊滅を図ったものの、戦況の好転は感じられず、ニクソンは1972年5月8日に北爆を再開する。いわゆるラインバッカーI作戦である。圧倒的な航空戦力を使って「ホーチミン・ルート」(英表記;Ho Chi Minh Trail)を遮断し、アメリカ地上軍の削減と地上兵力の南ベトナム化、北ベトナムとの迅速な講和を狙った作戦変更でもあった。 アメリカ空軍は第二次世界大戦以来の本格的な戦略爆撃を行う事を決定し、軍民問わない無差別攻撃を採用した。本作戦では従来の垂れ流し的な戦力の逐次投入をやめて戦力の集中投入に切り替えた。特に12月18日に開始されたラインバッカーII作戦ではボーイングB-52戦略爆撃機150機による700ソーティーにも及ぶ夜間絨毯爆撃でハノイやハイフォンを焼け野原にした。更に開発に成功したばかりのレーザー誘導爆弾ペーブウェイやTV誘導爆弾AGM-62 ウォールアイといったハイテク兵器を大量投入して、ポール・ドウマー橋やタンホア鉄橋といった難攻不落の橋梁を次々と破壊、落橋させた。2週間で北ベトナムの都市に対して実に20,000トンに及ぶ爆弾が投下された。 FX 海上でもハイフォン港等の重要港湾施設に対する大規模な機雷封鎖作戦も行われ、ソ連や中華人民共和国をはじめとする東側諸国から兵器や物資を満載してきた輸送船が入港不能になった。港内にいた中立国船舶に対しては期限を定めた退去通告が行われた。中越国境地帯にも大規模な空爆が行われ、北ベトナムへの軍事援助の殆どがストップした。中には勇敢にも強行突破を図った北ベトナム艦船もいたが、その殆どは触雷するか優勢なアメリカ海軍駆逐艦や南ベトナム海軍船艇の攻撃を受け、敢え無く撃沈・阻止されていった。 対日戦並の本格的な戦略爆撃や機雷封鎖は純軍事的にほぼ成功を収め、北ベトナムは軍事施設約1,600棟、鉄道車両約370両、線路10箇所、電力施設の80%、石油備蓄量の25%を喪失するという大損害を被った。北ベトナムは弾薬や燃料が底を突き、継戦不能な事態に陥った。 またアメリカ軍による空爆は北ベトナム国民のみならず南ベトナム国民にさえに大量の死傷者を出し、北ベトナム軍と国民にも少なからず厭戦的な意識を植え付けた。この大空爆は北ベトナム政府をパリ会談に出席せざるを得ない立場に追い込んでいた。北ベトナム軍は、陸軍の快進撃と裏腹に元々規模の小さかった海軍と空軍がほぼ全滅し、絶え間ない北爆とアメリカ陸空軍による物量作戦の結果、ホーチミン・ルートは多くの箇所で不通になっており、前線部隊への補給が滞りがちになった。国家崩壊の一歩手前まで戦況が急激に悪化したのである。しかし、北ベトナム軍にとって幸いなことに再度の北爆は国際世論の反発を受け短期間で中止された。 FX取引、FX初心者、くりっく365、FX口座開設、FX資料請求 [編集] パリ協定 和平協定案の仮調印を行う北ベトナムのレ特別顧問とアメリカのキッシンジャー大統領補佐官就任以前から段階的撤退を画策していたニクソン大統領は、1969年1月の大統領就任直後よりヘンリー・キッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官に北ベトナム政府との秘密和平交渉を開始させたが、1972年の北爆の再開などにより交渉は難航を重ねた。この年4月、ニクソン大統領は北ベトナムの隣国である中華人民共和国を電撃訪問する。共産圏の大国である中華人民共和国を訪問したことは、国境を接する北ベトナムについてや、中華人民共和国が同じく隣国のカンボジアのポル・ポトを支援している事が関連していると考えられた。 FX 秘密交渉開始から4年8ヶ月経った1973年1月23日、 北ベトナムのレ・ドゥク・ト特別顧問とキッシンジャー大統領補佐官の間で和平協定案の仮調印にこぎつけた。そして4日後の1月27日に、チャン・バン・ラム南ベトナム外相とアメリカのウィリアム・P・ロジャー国務長官、グエン・ズイ・チン北ベトナム外相とグエン・チ・ビン南ベトナム共和国臨時革命政府外相の4者の間でパリ協定が交わされた。この「和平協定」調印へ向けての功績を称え、レ特別顧問とキッシンジャー大統領補佐官にはノーベル平和賞が贈られたが、レ特別顧問は受賞を辞退した。 FX [編集] アメリカ軍の全面撤退 「ハノイ・ヒルトン」パリ協定の調印により、北ベトナムとアメリカの間に、「アメリカ軍正規軍の全面撤退と外部援助の禁止」、「北ベトナム軍に捕えられていたアメリカ軍捕虜の解放」、「北緯17度線は南北間の国境ではなく統一総選挙までの停戦ラインであること」の確認などについて合意が成立した。 FX その後、パリ協定に基づきアメリカ軍はベトナム全土から一斉に撤退を開始し、併せてハノイの有名な捕虜収容所「ハノイ・ヒルトン(正式名称:ホアロー捕虜収容所)」などの北ベトナムの捕虜収容所からのアメリカ軍人捕虜の解放が行われ、3月29日には撤退が完了した。 なお、この協定の締結までにアメリカ軍による北爆が停止されると、北ベトナム軍は補給路を確保しその体勢を立て直したが、アメリカ軍の再介入を恐れ、しばらく南ベトナム軍側に対し大規模な攻勢は行わなかった。しかしこの協定が締結されアメリカ軍が全面撤退した結果、前線における南ベトナム軍と北ベトナム軍の戦力の格差は決定的に広がることとなる。 [編集] アメリカ軍撤退後の戦況 西沙諸島に展開する南ベトナム軍兵士 ジェラルド・R・フォード大統領(左)とソ連のレオニード・ブレジネフ書記長ベトナムからのアメリカ軍正規軍の全面撤退により、その後のベトナム戦争は実質的に南北ベトナム軍の正規軍同士が直接対決する形になった(しかし、アメリカ軍の「軍事顧問団」は規模を縮小し南ベトナムに残留していた上、軍事物資の供給も行われていた。なお、この様な状況は北ベトナムとソビエトの間でも同様であった)が、アメリカ軍が撤退した分増えるはずのアメリカからの南ベトナム軍への軍事援助や南ベトナム軍の兵士の数は増えるどころか減り続け、それに合わせるように南ベトナム軍の死傷者の数も増大して行った。 また、1974年1月には勢いを増した北ベトナム軍が隣国のカンボジアの首都であるプノンペンに迫る。9月以降はソ連や中華人民共和国からの軍事援助を受け、力をつけた北ベトナム軍の部隊が南ベトナム北部を占領し、その後もじりじり南下してくるなど、その勢いは増すことはあっても減ることはなかった。なお、この渦中に、中華人民共和国の人民解放軍が南ベトナム軍を攻撃し(西砂海戦)、南ベトナム領で当時石油などの地下資源があると推測されていた西沙諸島に進駐した。その後現在に至るまで実効支配が続いており、ともに領有権を主張する中越間の紛争となっている。 また同月、アメリカ軍のベトナム全面撤退の立役者であるニクソン大統領はウォーターゲート事件の責任をとって辞任、後を継いだジェラルド・R・フォード大統領は、混迷を続ける内政の立て直しと中間選挙に集中しなければならず、これらに集中するためにレオニード・ブレジネフ書記長率いるソビエト連邦とは積極的な宥和政策を採る。こうしてアメリカ国民はアメリカ軍なきベトナムへの関心を失った。 その上にウォーターゲート事件やアポロ計画による月面探査による膨大な出費、オイルショック後の景気停滞やベトナム戦争に対する膨大な戦費と不況の関係などの国内問題に国民の関心が移ったアメリカは、同年8月に議会が最後の南ベトナム政府への金融援助を決定したものの、その額は以前と比べ物にならないほど低く、もはやアメリカ政府が南ベトナム政府を完全に見限ったことは誰の目にも明らかになった。 [編集] アメリカ カリフォルニア州にある、参戦した南ベトナム軍とアメリカ軍の兵士をたたえる記念碑アメリカは自らの利益の為に遠いベトナムの地で起こしたこの戦争で戦死者58,000余名(派兵数全体の約10%)と1,700機の航空機、その他にも大量な兵器の損失を出し、その結果膨大な戦費負担は経済を直撃した。しかしながらこの戦争により、ボーイングやロッキード、マクドネル・ダグラスやノースロップ・グラマンやヒューズ・エアクラフトなどの多くの軍需関連企業は大きな利益を手にし、いくつかの破産寸前だった企業が息を吹き返した。アメリカの経済に対する軍需産業と軍産複合体の影響力の詳細についてはアメリカの軍需経済と軍事政策を参照。